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奇   知   外   記

奇  知  外  記

天一国・天聖経 - 第1篇 神様 - 第1章 - 神様の存在と属性

第一章 神様の存在と属性

第一節 神様の実存

1 先生はかつて、長きにわたる祈 りと瞑想の生活の末、ついに実存する神様と出会い、絶対真理を伝授されました。それは、宇宙と人生と歴史の背後に隠されたあらゆる秘密を明らかにする、驚 くべき内容でした。この内容を社会に適用すれば社会の問題が解決され、世界に適用すれば世界の問題が解決されます。それだけでなく、宗教の未解決問題や哲 学の未解決問題も解決されるのです。これは、かつてなかった新しい世界観であり、新しい宇宙観であり、新しい人生観であり、新しい摂理観であり、新しい歴 史観です。また、あらゆる宗教の教理や哲学の特性を生かしながら、全体を一つに包容できる統合原理でもあるのです。

2 「神様がいる」と言うとき、それは言葉だけで知ることではありません。主体と対象の関係を中心とする原理から見てみるときに、神様は存在していると言わざ るを得ない、ということではないのです。神様は、「私」が存在する前にいらっしゃったのであり、私が考える前にいらっしゃったのであり、私のすべての感 覚、私の一切を主管するお方です。それを認識することが何よりも重要な問題です。知って認識するのが原則ではありません。認識して知るようになっているの です。私たちは、寒ければ寒いことを知って感じるのではなく、寒いことを感じて知るのです。これと同じように、神様がいらっしゃるとすれば、神様がいらっ しゃることを感じなければなりません。細胞で感じなければなりません。その境地が問題です。言い換えれば、神様の存在を体恤する立場をいかに私たちが確定 するかということ、これが問題だというのです。

3 人生において最も問題になることとは何かというと、まず神様がい るのか、いないのか、ということです。罪人の中で最も大きな罪人とはどのような人かというと、神様がいるにもかかわらず「いない」と言う人です。例えば、 父母が元気に生きているのに、子女が「父と母はいない」と言えば、その子女を孝行者と言うでしょうか、不孝者と言うでしょうか。不孝者と言います。それで は、神様がいらっしゃるにもかかわらず「いない」と言う人は、どうなるでしょうか。そのような人は、みな滅びてしまうのです。ですから、存在する神様を 「いない」と言うこと以上に大きな罪はありません。「神は死んだ」と言う人たちがいますが、これ以上に大きな罪はないというのです。

4 皆さんは、漠然と、観念的にのみ神様の実存を認識してはいけません。論理的な面でのみ神様の実存を認識しようとすれば、無理があります。なぜなら、論理圏 内だけにとどまる神様ではないからです。論理的に神様を認識する信仰が、私たちの生涯を導いて永遠の生命の実体として完成させてくれるのかというとき、こ こには問題点が多いというのです。それでは、このような環境で生きている私たちは、どのようにすれば真の主であられる神様の前に出ていくことができるので しょうか。皆さんが、神様の存在を認めるならば、自分がもっている神様に対する疑いの心を率直に明らかにする、信仰の対象者としてとどまることができなけ ればなりません。


結果的存在に対する原因的存在

5 自分が生まれたいと思って生まれてきた人は誰 もいません。男性なら男性、女性なら女性、その誰もが、生まれたいと思って生まれてきたのではないのです。父母を通して生まれましたが、自分自身が願って 生まれてきたのではありません。私たちの父母も、やはり同じです。父母の父母、このようにして最初の先祖であるアダムとエバまでさかのぼれば、アダムとエ バも、やはり同じです。すなわち、人類の始祖となる先祖も、自分たちが願って存在するようになったのではありません。誰か、あるお方が動機となって存在し 始めました。「人」と言えば、男性と女性がいます。男性には女性がいなければならず、女性にも男性がいなければなりません。また、男性は、 自分が願って男性として生まれてきたのではなく、その男性に必要な女性も、自分が願って女性として生まれてきたのではありません。生まれてみると男性だっ たのであり、女性だったのです。そうして女性として、男性として育ってみると、夫婦になるにはお互いが必要だ、ということを知るようになります。このよう に見るとき、この根本原因になるものは人間だと見ることはできません。もし神様がいなければ、人間は存在することができないでしょう。

6 男性と女性が互いに出会って生活していくうちに、膨大な数の人類になりました。その人類は、数多くの国家に連結されていて、数多くの国家は、数多くの氏 族、数多くの家庭、数多くの個人に連結されています。「私」自身も、その個人の中の一人であり、その家庭の一員です。ですから、現在の私たちに結ばれたそ の家庭、あるいは親族は、自分たちが願って形成されたものではありません。神様によって生まれて、家庭の一員になったのであり、親戚の縁を結ぶようになっ たのです。私たちは師弟の縁や父子の縁を論じますが、その縁も、神様がいなかったとすればあり得ません。このすべてが神様による結果の世界です。

7 この地のあらゆるものが存在するためには、存在させた原因がなければなりません。今日、私たちが生きている社会、私たちが暮らしている国、私たちが見つめ る世界も、結果の立場にあります。このようなすべての環境のつながりが備えられるためには、その環境を備えさせた動機が存在しなければならない、というこ とを否定できません。一つの社会の形成、一つの国家の形成、一つの世界の形成について見てみるとき、それを受け継いでいくのは、もちろん人間です。しか し、人間自体が人間を形成させ得る根本原因になることはできません。人間は、どこまでも結果的存在の立場を避けられないのです。ですから、人間を形成させ 得る動機と内容が存在しなければならず、その原因が必ず存在しなければなりません。

8 私たちの心と体は、神様を中 心として一つにならなければなりません。心と体が神様と完全に一つになって、三位一体にならなければなりません。神様を中心として一つにならなければなら ないというのは、神様が原因だからです。神様と人間は原因と結果であり、人間の心と体は相対的です。宇宙の根本がそのようになっています。宇宙の根本は、 原因と結果が一つになったものであり、主体と対象が一つになったものです。原因と結果、主体と対象が一つになること、それ以外に、理想的環境、理想的存在 は見いだせません。

9 人間は、あくまでも原因的な存在ではありません。ある原因による結果的な存在です。結果は原 因と関係なく成り立つことはありません。紆余曲折を経たというとき、その結果は必ず原因と相応する内容と連結されて成り立っています。人間も、ある原因に 似てそのようになっているというのです。その原因的な存在が神様だとすれば、人間は神様に似てそのようになったという結論が出てきます。

10 神様は、この宇宙の原因的な存在です。あらゆる作用の原因的な存在であり、力を加える原因的な存在であり、方向を提示する原因的な存在であり、目的を提示 する原因的な存在です。私たちはそのお方について、「人格的な神様である」と言います。なぜかというと、必ず動機を中心として方向を定め、目的を提示する からです。それが一つの明確な立場なので「人格的な神様である」と言うのです。ですから、原因を通して方向を定め、目的の世界に進んでいきます。そのよう な観点において、全体の原因的な存在が神様だというのです。


人体の神秘から見た神様の実存

11 人は、宇宙の被造万物の中で、皆さんが推し量ることができないほど偉大で、素晴らしい傑作です。それでは、その主体者、すなわち絶対的な神様がいらっ しゃって人を造ったとすれば、神様御自身が語ること、見ること、感じることが分からないように人を造るでしょうか。神様を作家に例えてみましょう。作家は 心で考え、頭で構想して、最高の作品を作ろうとします。一つしかない最高の作品を作ろうと構想して作った作品が、それこそ一つしかない作品になるときに は、無限にうれしく思うのです。その作品が自分の思っていたものよりもっと素晴らしくなったというとき、「私が考えていたものと違うものになったので壊し てしまおう」と言って壊してしまう人はいないはずです。自分が考えていたものよりもっとうまくいったときには、自分の一生の宝物だと思い、どこに行っても 自慢したいと思うのが作家の気持ちです。人間が自分の思っている以上のものを望むとすれば、神様もそれ以上のものをお望みになるはずです。そのようにして 人間を造ったとすれば、どれほど素晴らしく造ろうとされたでしょうか。ここにおいて、神様は人間を、最高の傑作として造りたいと思わざるを得なかった、と いう結論を下すことができます。

12 私たちの人体の構造は、本当に神秘の王宮です。数多くの細胞が個別的であると 同時に、相応的な関係を中心として、相反することなく協調した構成を通して、私という個人の自由解放圏を形成しているというこの事実は、驚くべきことで す。膨大な世界が流動し、運動するのは、「私」一人を完成するためであるという結論にもなります。さらには、神様のみ旨を成すために動いているという結論 が出てくるのです。

13 人間において、最も重要なところが顔です。顔の中でも、最も重要なところが目です。この目 を中心として考えてみるとき、目は父母から来たと言うことができます。それでは、その父母の目はどこから来たのですか。先祖の先祖をさかのぼっていくと、 最初の人間であるアダムとエバにまで至るようになります。それでは、最初のその目が生まれる時、太陽があることを目が知っていたでしょうか。いくら考えて も、知っていたとは思えません。目自身は、輻射(ふくしゃ)熱によって水分が蒸発しかねない、この地球というものを知りませんでした。また、眉毛は目にほ こりが入るのを防止するためにありますが、眉毛が生じる時、空気の中にあるほこりが目の中に入ってくるのを防ぐために生じたことを知りませんでした。この ように、目は無尽蔵な神秘の王宮になっているという事実を考えるとき、目自体が生じる前に、既に太陽があり、空気中にほこりがあり、水分が蒸発しているこ とをはっきり知って、これに合うように誕生させた存在があったということが分かります。その誕生させた主体を、私たちは「神様」と言うのです。

14 耳を見ると、耳は前に向いています。それが反対になっていたとすれば、また、なかったとすれば、どうでしょうか。前から来る音がそのまま通り過ぎてしまう でしょう。遠くの話し声も聞こえないはずです。耳は、前から来る話し声を受け止めるようになっています。なぜでしょうか。相手と向かい合って話をするから です。後頭部に向かって話す人はいません。人と会って話をするとき、向かい合って話をするので、そのようになっているのです。耳が前に向くようになったの は、前から来る声を聞くようになっていることを、耳が生じる前から先に知っていたということです。

15 何のために 耳を作っておいたのでしょうか。それは空気が流れて、そこに引っ掛かることで音が集まるようにするために、そのようになっているのです。耳を一度よく見て ください。大きな輪があり、小さな輪があって、声をうまく調節します。大声が聞こえてくれば、この大きな輪でその声を弱めます。大声がそのまま耳に入ると 衝撃を受けるので、大きな輪で声を一度弱めてから、小さな輪に入るようになっています。そうでなければ大変なことになります。耳自体は知らなかったのです が、もともとの動機がそうなので、そのような形になったのです。誰かが知っていたので、そのように作ったということです。造物主か何か分かりませんが、そ の何かが存在するというのです。

16 顔に真っ黒な眉毛がついているのを見るたびに、「なぜ、こんなに真っ黒なもの があるのだろう」と言いながら気分を悪くするかもしれません。これがなければ、顔がどれくらいすっきりしてよいでしょうか。それなのに、なぜこれをつけて おいたのでしょうか。人の顔に毛が生えていれば眉毛が必要でしょうか。獣は四つ足になって這い回るので、眉毛が必要ありません。それでも、その形態はあり ます。しかし、人は立って行き来するので、眉毛が絶対的に必要です。眉毛が生えている所は、大抵わずかに高くなっています。眉毛の部位がわずかに高くなっ ていて、山脈をうまく形成しています。それこそ、良い場所の中でも一番良い場所です。なぜこのように作られたのでしょうか。人が立って行き来することを 知っていたからです。

17 人が這って行き来するなら、眉毛は必要ありません。本当に、よくぞくっついているという のです。そして、この眉毛が片側方向に出ています。なぜそのようになっているのでしょうか。雨が降って水が流れるとき、一カ所に流すためです。眉毛が片側 方向に向かっていて、横のほうに流れるようになっているので、水が流れ落ちるとき、間違いなく下に流れ落ちるのです。もし、眉毛がなければどうなるでしょ うか。汗や雨水がすべて目に入ることになります。汗が目に入ると痛くてたまりません。我慢できないというのです。目をよく見ると、眉毛だけでは頼りないの で、さらにまぶたで丸く囲んでいます。まぶたで囲んで目を保護するようにしてあるのです。涙はへこんだところを通って、横に流れ落ちていくようになってい ます。安全が保障されているというのです。誰が設計をしたのか分かりませんが、何千年、何万年研究して作ったはずです。

18 鼻がもし逆さまになったとすれば、どうなるでしょうか。夕立でも降れば、大変なことになります。どれくらい深刻なことか考えてみてください。笑い事ではあ りません。鼻は顔の中で人間を象徴します。人間には天道があります。上下関係の秩序を守らなければならないというのです。鼻はなぜ下に向かって広がってい るのでしょうか。もしそのようになっていなければ、口が大変なことになるというのです。雨水のようなものが口に流れ込むようになれば、口はどうなるでしょ うか。それで鼻は下向きの形になったというのです。このように考えながら顔を見ると、何とも不思議に感じられます。

19 唇を見ると、とても不思議です。唇と歯はよく調和しています。唇と歯はどれほど離れていますか。わずか数ミリしか離れていません。これが危険だとすれば、 これ以上危険なことはありません。まかり間違えば大変なことになります。しかし、不安を感じますか。食べるときは、ただ食べることに忙しく、不安を感じた りすることはありません。舌も、どれほど不思議でしょうか。口の中で引っ張ったり押したりしながら、押し切りのような歯の間を出入りしながらも、衝突する ことなく、どれほど上手にリズムを合わせるでしょうか。よく調和しているというのです。先生は本当に早く話します。このように早く話しているのに、どうし てこのようにリズムを合わせ、初めて会った皆さんと親しくなるように話せるのか、本当に不思議で、よく調和しているというのです。もし舌が指と同じような 仕事をするとすれば、どうなるでしょうか。大変なことになります。


本心作用から見た神様の実存

20 神様がいるのかいないのか、どのようにして知ることができるのでしょうか。私たちは、見えはしませんが空気があることを知っています。どうして知っている かというと、空気を吸って生きているからです。空気は何か味がしますか。味もなく、見えもしませんが、はっきりと空気があることを知っています。同じよう に、私たちには心があります。見えはしませんが、心があることを私たちは、はっきりと知っています。心が見えないからといって、ないと言ってはいけませ ん。心がどのような姿形をしているのか分かりませんが、本当に不思議です。

21 神様が暮らすところはどこでしょう か。神様は、最も価値のある愛に定着されます。男性と女性の二人がいれば、神様はどこにいらっしゃるのでしょうか。神様は、一体化して変わらない、統一さ れた愛の最も根底に、垂直にいらっしゃいます。男性と女性が一つになれば、そこが中心点になるのです。神秘的な祈りの境地、霊的体験圏に入って「神様!」 と呼べば、内から「なぜ呼ぶのか。ここにいる、ここだ!」と答えられるでしょう。「ここ」というのは、自分の心の中です。心身一体化した愛の中心点、垂直 の場です。それでは、個人から家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙の中心はどこでしょうか。いくら小さくても、その中心は良心です。宇宙の愛の軸がとどま るところ、支える先端の地は、自分の良心です。心身一体化した、その良心です。

22 神様は、愛の根、生命の根、血 統の根、良心の根です。これは聞違いないことです。そのような神様がいるとすれば、なぜ感じられないのでしょうか。「私」と一つになっているからです。愛 と共に、生命と共に、血統と共に、良心と共に一つになっています。神様は根です。神様を現そうとすれば、四方に愛をまきなさいというのです。投入しなさい というのです。それは、自分の生命と愛と、このすべてのものを犠牲にして完全にゼロの位置に戻れば、神様が主人として現れるということです。ですから、ゼ ロになったその位置で、神様を中心として横的に連結するのです。堕落したために、これが縦的に押さえつけられています。これを横的に連結できるようにすれ ば、神様が、自分の良心の中で主人になるのです。

23 人間には、否定しようとしても否定できない良心があります。 良心があることを否定する人はいません。堕落した人間は、神様がいるのかいないのか分かりません。もし神様がいる場合、神様は創造主であり、人間はその神 様が造った被造物だとするならば、被造物と創造主が一つになることができ、一つの共同目的を提示し得る何かがなければなりません。神様が人間を造ったとす れば、その造られた人間を神様が望む創造の目的と一致する点に到達させる、そのような力が作用するものがなければなりません。そうでなければ、人間を造る ことができません。神様は絶対者なので、絶対者である神様と、被造物である人間が一つになれる第一の基盤、接触できる第一の土台が必ずなければならないの です。ですから神様は、人間に対してその目的とする結果に到達できるように、人間の中で作用できる何かを存続させなければなりません。それがなければ、神 様も喜び、人間も喜べる位置を発見できません。

24 絶対的な神様が人間を造るとき、人間を創造した創造目的の基準 と、造られた人間として行くべき目的の基準が、それぞれ異なることはあり得ません。必ず一つになってこそ、神様も喜ぶことができ、人間も喜ぶことができる のです。絶対的な神様を求めて上がっていけるようにする何かの作用が、人間の中になければなりません。その作用がなければ到達できないので、それを望む力 がなければなりません。「私」を刺激して引っ張り、押してくれる力がなければならないのです。それが、私たちが否定できない良心の力です。良心は高くなる ことを願って作用します。良心は、現在の自分より良くなれ、良くなれと催促します。この作用だけは否定できません。良心は、現在の自分よりも高くなれと促 すのであって、低くなるように促したりはしません。きょうよりもあす、あすよりもあさって、今年よりも来年、行けば行くほど、さらに高く、さらに価値のあ る自分を形成しなさいと促す、その力が良心作用です。

25 人間の良心は、あくまでも対象的なものであって、主体的 なものではありません。何か分かりませんが、作用の原則に従って求めていけば、必ず作用せざるを得ない一つの主体が存在します。その主体と対象は、互いに 損害が発生することを望んで作用するのではなく、より利益になることを、より良くなることを願って作用します。私たちの良心は、より良い、より大きい、よ り価値のある、より世界的なことに向かって作用しています。したがって、良心作用は、単独で働くものではなく、主体と対象が一つの目的を願って働くものだ という結論を下すことができます。

26 主体と対象が私たちの良心の中で作用するのを見るとき、その良心作用は、主 体がなくては作用できないというのが天地の原則です。良心が作用を継続して高次元の何かを追求するのを見るとき、高次元の主体がなければならないという結 論を下すことができます。ですから、良心の主体となる神様が存在しないと言うことはできません。神様は絶対的に存在します。神様が絶対的に存在しないと言 う人は、絶対的に良心作用を否定しなければなりません。良心があることを絶対的に認める限り、神様は絶対的に存在します。

27 人には、絶えず作用している良心があります。皆さんが深い眠りから目を覚まし、良くないことをしようとすれば、心はいつも番人のように「おい、こら!」と 言います。その良心作用があることを否定できません。良心をもった人間は、結果的な存在です。結果的な存在が絶えず良心作用をしているという事実を中心と して考えてみるとき、作用をするには必ず主体と対象の関係がなければならないので、主体を公認せざるを得ません。その良心作用は、下りていきなさいという のではなく、最高の所に上がっていきなさいと催促しています。なぜでしょうか。ある偉大な主体者と一つになろうとする、より価値のある要求を作用させるプ ラス的要件がそこにあるので、そのような作用をしていると見ることができるのです。


歴史の中で摂理してこられた神様

28 神様は、きょう、この時点内にのみ存在する神様ではありません。いつも「私」の生活感情にのみ相対される神様ではないのです。その神様は、過去から今まで 存続してきた神様、すなわち歴史的な神様です。ですから、その神様が歴史を継承させてこられながら望んできた道は、自ら自覚したことに夢中になって努力す る人を通して、その歴史の背後において従っていく道ではありません。摂理の内容を先に悟り、その歴史を輝かせ得る時点に立った人が描いていく生活基盤を通 して、神様は、摂理を発展させてくるのであり、摂理のみ旨を存続させてこられるのは間違いありません。その位置は、自分のための位置ではなく、公的な位置 です。

29 私たちは、何によって神様をつかむことができるのでしょうか。精誠です。今の時代には信仰の自由がある ので、迫害がありません。言論、集会、結社、信仰の自由を所有できる時代をつくっておいたのは、終わり日の一時のためです。自由に信仰できるようにしてお いたのは、み旨があったためにそのようにしたというのです。今、私たちの時代は、いくら天のために苦労し、命を差し出して忠誠を尽くしても迫害されませ ん。そのような時は過ぎ去りました。ですから、心情をもたなければなりません。歴史的な神様の心情をもたなければなりません。神様は、その時代の神様では なく、歴史的な神様です。歴史路程で、数多くの預言者を立てて苦労された神様です。皆さんを生かすために、歴史路程で数多くの人に迫害の道、殉教の道を歩 ませて今日まで来られたのです。ですから、歴史的な神様だというのです。

30 今までの歴史を見れば、世界の文化圏 は、宗教文化圏内に吸収されてきています。民主世界を中心としたキリスト教文化圏や極東アジアを中心とした儒、仏、仙の文化圏、インドを中心としたヒン ドゥー教の文化圏、イスラーム文化圏などの形成を中心として見てみるとき、数千年の間、人々は宗教文化圏内に群がってきたことが分かります。これは、修理 工場が建てられれば、そこに必要なすべての付属材料がその周辺に集まるのと同じことです。このような事実を見るときに、神様が役事(働き)していらっしゃ るというのです。


無形でいらっしゃる神様

31 神様は、この宇宙の中で、存在されない所がありま せんが、私たちは、そのような神様がいるのかいないのか知らずに生きています。そして、空気があるのに、空気があることを普段は感じることができず、息が 詰まって初めて存在していることを感じます。また、脈が一分に七十回ほど打っているのに、これも普段は気づかずにいます。歩くとき、脈に歩調を合わせ、ま ばたきするときも、脈に合わせてまばたきして暮らすなら、神経が衰弱して、三日もたたずに倒れるでしょう。ですから、私たちがそのようなことに気づかない のは、よくできているからです。全知全能の神様、全天下を料理する神様が私たちのそばにいるとしましょう。力で言えば山も吹き飛ばし、地球にも穴を開ける ことのできる神様を、私たちの目で見ながら生きるとすれば、生活できると思いますか。ですから、神様が見えなくて良かったというのです。見えたとすれば、 私たちは神経が衰弱して、一時間も我慢できないでしょう。ですから、神様が見えないことを有り難く思わなければなりません。

32 私たちは、太陽の光を受けて生きていますが、それに対する有り難みが分かりません。それが有り難いといって、「お天道様、ありがとうございます」と挨拶は しません。このように、私たちは大きなことについては感謝しようとしないというのです。もし、この世界に空気が一リットルしか残っていないとすればどうな るでしょうか。神様が意地の悪い方ならば、世界の統一は問題ありません。恐らく五分以内に統一されるでしょう。神様が空気をすべてもっていって、「お前た ち、統一するのかしないのか」と言えば、世界人類が声を合わせて「統一します」と言うでしょう。そのようにすれば、一遍に統一することができるかもしれま せんが、神様がそのようにされないことは有り難いことです。空気がなければ、私たちは生きることができません。このように空気は、生命に絶対に必要な要素 です。

33 知恵深い神様、全知全能であられる神様は、中央で思いどおりに振る舞うことができる無形な存在として治 めるのが、一番便利だと考えられました。神様は無形なので、存在世界を思いのまま突き抜けてきたとしても、誰も、全く支障を感じません。皆さんには体があ りますが、神様が来て思いどおりに通り過ぎていかれても、気づきません。神様が、こくりこくりと居眠りしている皆さんの体を、思いのままに踏んでいかれて も知らずにいます。ですから、どれほど便利でしょうか。神様は、考えた末に、見えない神様としていらっしゃるのが一番便利だと考えて、そのように見えない 神様になられたという論理が妥当です。

34 私たちは、空気が流れていることを知っていますが、それを感じられませ ん。空気が流れることも感じられないのに、神様が通ることを、どうして感じられますか。神様は、無形の神様としていらっしゃるのが最高に便利な方法です。 それでいて、この大きな宇宙を治めることができる、それをふろしきで包んで余りある神様でなければなりません。無形の神様ですが、神様の気持ちは、この宇宙でさえ小さいと思い、もっと大きなものを求めていらっしゃるのです。

35 皆さんは、最も大切なものを、人が見たり触ったりできる所に置きたいとは思わないはずです。それを誰も盗んでいけないように、とても奥深くに隠そうとする でしょう。皆さんにとって最も貴重で、たった一つしかない最も良いものなら、それを誰も持っていくことのできない所に隠しておこうとするでしょう。心の深 い所、心の根底、正にそこに、そのようなものを隠したいと思うのですが、そこは、皆さん一人だけが神様と出会うことのできる唯一の場所です。皆さんの心 は、一人で神様に出会える唯一のものなのです。神様も、開放された場所で皆さんに出会うのは好みません。独特な人間性、独特な思考、独特な感情をもってい る、個人としての皆さんに出会える、一つの場所を願われます。それが、神様が人間の良心を無形につくられた理由です。

36 世の中にたった一つしかない宝物があるとして、それを失った日には世界がひっくり返るとしましょう。そのような貴重なものを、心の中の隅に持っていって置 くでしょうか、心の中の一番中心に持っていって置くでしょうか。その貴い宝物を、心の一番中央にしまっておくはずです。それでも安心できずに、しっかりと 包んでおくでしょう。また、誰かが入ってきてそれを見物するのも嫌なので、ふたを締めてしっかりと包み、絶対にほかの人に見えないようにするでしょう。こ のようにしたいと思うのが人の気持ちです。神様が見えるとすれば、この天地のダイヤモンドが問題ではありません。宇宙で一つしかない唯一無二の存在である 絶対者、無限の価値の絶対者、無限の生命の絶対者、言葉で表現できない大切なお方を、どこに隠したいと思うでしょうか。心の中にしまいたいと思うでしょ う。ですから、誰も知らない所に、何千年、何万年研究しても分からない所に隠したいと思うというのです。ですから、神様が見えないのは良いことなのです。

37 神様は無形の存在です。無形と有形はいかにして結合するのでしょうか。無形世界と有形世界はいかにして一つにすることができるのでしょうか。これは理論的 に難しい問題です。肉的な何かが母体になっていては、霊的な自分と肉的な自分を一つにすることはできません。霊的な父母と肉的な父母、堕落していない本性 の基準で、霊的な神様と、見える実体である太初の堕落していない人類の先祖が、何を中心として一つになれるのかというのです。縦横が必ず一つにならなければなりません。縦横が一つにならなければなりませんが、何を通して一つになるのかというと、愛です。真の愛は最短距離、直短距 離で通じます。


遍在される神様

38 神様の心は、神様のみ言の中だけにあるのではなく、神様が造られた万物の中にもあります。天地のどこに行っても、そこに神様の心があるというのです。です から、神様は存在しないところがない、すなわち遍在すると言われています。神様の心の中にいることを願うのなら、皆さんが見つめる物の中に神様の心がある ので、その物を自分の物として、天地のあらゆる存在物を自分の物としてかき抱こうとする心をもたなければなりません。私たちの心は、この民族を越え、世界 を越え、被造万物を越えて神様と共にいたいと思うのです。神様までも「自分のものだ」と言える立場に行くことを、心は待ち望んでいます。そのような心を もった人は、神様と共にある人です。

39 皆さんは、神様の遍在性を、どのようにして感じることができるのでしょう か。空気を神様の息のように感じ、台風が吹いてくれば、それを神様の鼻の息のように感じなさいというのです。流れる水があるなら、それを、神様がこの世界 のために受難の道を克服しながら流された汗のように感じなさいというのです。太陽を眺めれば、その太陽がこの宇宙全体の生命の要因を象徴していることを 知って、神様の愛を太陽から学びなさいというのです。神様の心情を体恤するための一つの教本であり、教材として展開させ、愛する息子、娘を喜ばせるための 教材として立てておいたものが自然です。

40「天上天下(てんげ)、唯我独尊であり、全知全能で遍在し、私を経な いものがない」と言うとき、それは愛を中心として語る言葉です。愛を中心として遍在するということです。愛を中心とすれば隠すものがありません。みな現れ ます。愛する正にその瞬間に、みな現れるのです。愛を中心とした遍在の立場、愛を中心とした全知全能の立場にいたいと思うお方が、神様です。

41 神様が宇宙にいないとすれば、宇宙は空(から)と同じです。しかし神様がいるとすれば、字宙はいっぱいに満ちているのです。それは愛があるからです。です から、「私」が一人でいても、神様がいることを知るようになるときには、宇宙はいっぱいに満ちているのです。神様はどこにでもいらっしゃいます。どこにで もいらっしゃることを感じるようになります。ですから、愛の中で遍在されることに感動するのです。しかし、私が神様が分からなくなるときは、すべてのもの が空になります。

42 神様がいるのかいないのかというと、神様は明らかに存在します。どこにいるのでしょうか。私 に一番近いところにいます。ですから、見ることができません。一番近いので見ることができないのです。皆さんの目が皆さんの目を見ることができますか。近 いので見ることができません。ですから、神様も近いので見えないのです。

43 男性なら男性、女性なら女性は、すべ て神様を身代わりします。神様がほかのところにいるのではありません。「私」の心の中にいます。ですから、祈るときは心と会話しなければなりません。神様 は心の根にいます。心をどんどん掘り下げれば、最高の良心の根に神様がいます。その次には、愛の根にいて、生命の根にいて、血統の根にいます。ですから、 家でも感謝、社会に出ていっても感謝、国と世界のどこに行っても感謝なのです。天国に行っても、この公式どおりになります。どこに行っても通じるのです。 それが地上天国であり、天上天国も同じです。


第1篇 神様 - 第1章 - 第2節 根源であり本体であられる神様.

第二節 根源であり本体であられる神様

1 人間が絶対者によって創造され、絶対者の愛を実践するように造られたとすれば、人間の創造に動機と目的があったことは明白です。その動機と目的を明らか にしようとすれば、絶対者がどのようなお方かという問題、すなわち正しい神観がまず立てられなければなりません。正しい神観が立てられることによって、そ のお方の創造の動機と目的が明らかにされるのであり、したがって、平和のために絶対愛を実践しなければならない理由も明白になるのです。


第一原因者であられる神様

2 この世の中には、男性と女性の二種類の人間が暮らしています。彼らは、自ら立場を変えることはできません。皆さんは、自らが願ってそのように生まれたの ではありません。自分が考えもせず、願いもしなかったのに、そして、原因はもちろん、結果や過程も知らないのに、そのように生まれたのです。人間がいくら 偉大だとしても、原因的な存在ではなく、結果的な存在であることを否定できません。したがって、第一原因的な存在がなければなりません。第一原因的な存在 を神様と呼んでも、何かほかの名で呼んでもかまわないのですが、その原因的な存在がなければなりません。

3 人間は、あくまでも第一存在ではなく、第二存在です。第二存在、すなわち結果的存在があるためには、原因的存在である第一存在がなければなりません。第 一存在と第二存在は、離れようとしても離れることはできません。その第一存在と第二存在は、原因と一体となることのできる結果を望みながら、その関係が結 ばれます。神様が人類の中心となって人間の原因的な存在になったとすれば、結果的存在である人間には、その理想を実践できる過程が必要です。それが、私た ちが成長して生きる生活過程であり、また長い時間で見れば歴史過程です。

4 あらゆるものを見ると、対になっています。鉱物世界にも、プラスイオンとマイナスイオンがあり、与えたり受けたりしながら運動しています。花にも、雄し べと雌しべがあります。動物世界にも、雄と雌がいます。近頃は、細菌にも、雄と雌があるという話をしているのです。見えない世界にまで雄と雌がいるという のですから、見える世界はどうでしょうか。雄と雌が自分の意志によって生まれたのでしょうか、他者の意志によって生まれたのでしょうか。他者の意志によっ て生まれたのです。ですから、私たちは、いくら優秀だといっても、結果的存在であって、第一原因的存在ではありません。私たちは対象的存在にすぎません。

5 人間は第一原因から始まりました。第一原因とは何でしょうか。その名前は何でもよいのです。絶対者なので、そのお方が考える理想は、絶対的理想です。人 間は、あくまでも第一存在ではなく、結果的な第二存在です。「私」にとって第一存在は、父母です。父母の第一存在は、祖父母です。祖父母からさかのぼれ ば、第一存在は、最初の先祖になります。人間の最初の先祖を中心として、神様がいるとすれば、神様にまでさかのぼるのです。

6 神様は、私たちの心の動機になるお方です。人間の第一源泉になるお方です。私たちの理想の起源になるお方です。この起源を除外しては結果が現れません。 ですから、神様を除外しては世の中が成り立ちません。父母を失った孤児のような境遇にあるのが、この地上の人類です。しかし、その孤児の前に、失ってし まった父母を取り戻すようになれば、その歓喜の声がどれほど大きいでしょうか。世の中を征服して億万の大金を手にした名将の勝利も、この喜びとは比較にな らないのです。心が重要です。いくら勝利を称賛できる立場にあるとしても、父母の前に行かなければ真の子女として立つことができません。


本体であられる神様

7 歴史は個人から出発して世界にまで広がっていますが、どこで終結するのでしょうか。最高善の本体である絶対者と、永遠不変の縁を結ぶ時まで統くでしょ う。最高の善は永遠不変なのです。それ以上の発展がありません。今日、この世の中を見つめるとき、生活感情の異なる民族が、だんだんと生活感情を共にして います。また、理念を異にしていた数多くの宗教が、理念を共にする方向に進んでいます。根本は一つです。この絶対的な一つの価値に向かって、歴史は総進撃 しています。ですから、現実に現れた価値は、相対的な価値にしかならないというのです。

8 神様は、情、知、意の本体です。そのような神様は、どのような目的意識をもっていらっしゃるのでしょうか。創造してから目的意識をもったのではなく、創 造の前から目的意識をもって創造されたに違いありません。もし、そのようなお方でなければ、歴史を収拾することはできません。人間の認識では感じることの できない力が歴史の背後にあるからです。もし神様にそのような目的意識がないとすれば、目的とする世界に、歴史と全人類を導くことはできません。それゆえ 神様は、人間が堕落したとしても、堕落していない人間に賦与すべき世界的な目的意識を痛切に感じていらっしゃるのです。

9 神様は、愛のために人間を創造されました。愛は独りで成立するものではありません。したがって、神様が絶対に必要とされるただ一つのものは、その愛を施 すことのできる対象、すなわち神様が愛することのできる対象です。必ず相対がいてこそ愛することができます。愛と心情の本体であられる神様は、その愛が動 機となって宇宙を創造されたのであり、特にこの期間に、創世記第一章二十七節のみ言どおり、神様に似た実体対象として人間を創造されたのです。

10 愛の究極者は神様です。この愛よりも深いものが心情です。神様は心情の根源者です。ですから、この心情を中心として、み言も、行動も、理念も成立しま す。そのいかなるものも、単独では成り立ちません。いつも神様から来る縦的な心情が伴わなければならないのです。神様の歴史的心情、時代的心情、未来的心 情をもたなければなりません。

11 神様は真理の本体であり、善の本体であり、愛の本体であり、生命の本体だといいますが、それはどういうことでしょうか。みな同じ話です。真理が成立す るには、愛と生命がなければなりません。真の真理を語ることのできる人になるには、自らの生命の中に真理に対する意欲と欲望がなければなりません。生命の 本体、愛の本体、真理の本体である神様は、人間の父であると同時に母です。核心は父母です。このように見れば、神様は単純で、分かりやすいお方です。

12 真の父母が生まれた国も、永遠に変わりません。永遠に変わらない国の国民と一つになることは、どれほど貴いでしょうか。あらゆる結果的な存在は、永遠 に変わらない本体と一つになりたいと思うのです。本体とより近いところと関係を結ぶことが、心情世界の最高の願いです。

13 神様は、私たちが見いだすべき希望の本体であられると同時に、全体の価値を代表する栄光の本体でいらっしゃいます。ですから、神様の全体に対する主管 性を復帰するためには、皆さん一個体で神様を所有できなければなりません。神様を迎え得る人にならなければなりません。その神様は、億兆蒼生を造られた神 様であり、万物に対する全体主管の行使をなさるために復帰の苦労をしてこられた神様です。したがって、皆さんが神様を所有したとすれば、その神様は皆さん の神様なので、そのお方が永遠であれば皆さんも永遠であり、そのお方が被造世界に対して主管性をもつようになれば、皆さん自体も実体をまとった神様の立場 に立って、万物を主管できるようになります。そのような皆さん自体を探し出すことができないとすれば、神様を所有したとはいえないでしょう。

14 今までもってきたあらゆる罪悪の要素を打破してしまうことができ、今まで属していた死亡の権勢から解脱できる信仰の基準をもたなければなりません。そ うするためには、皆さんの疑問を解き得る道を探さなければなりません。生命に向かって進んでいける道を探さなければならないのです。もし、このような道が 人間の世にないならば、神様は訪ねてこられません。自分の誤りを悟って悔い改められるように良心を刺激させてくれる実存体が神様ならば、その神様が願う最 大の希望と生命と人倫の基準を、皆さんが必ず立てなければなりません。そうすることのできる一日、歴史的な終末時代が、いつかは来なければなりません。そ れでは、このような宇宙的な運命の道を前にして、皆さんはどの程度考えてみましたか。皆さんは、宇宙と、この社会と世界、さらには皆さん自身に対しても疑 いを抱き得る環境に置かれています。このような、あらゆる問題を解明してくれる中心存在が神様です。また、人間が心配しているあらゆることを御存じのお方 も、神様ただお一人であり、それを解決してくださるお方も、たったお一人の絶対的な存在であられる神様です。


天宙の大主宰であられる神様

15 天宙の中心存在は神様です。その神様は、宇宙的な父母、全体の父母です。このすべての被造世界において、目的としたことを間違いなく経綸(けいりん) していかれるお方が、創造主であられます。その創造主から、父母の心情圏を受け継いで、この地上に生まれるべき人類の先祖が、地の父母です。このように見 るとき、天宙を中心として私たちは、三大父母を発見するようになります。永遠であられる天の父母がいると同時に、地の父母がいて、家庭の父母がいます。天 の父母と地の父母と家庭の父母、この父母が何を中心として公的な内容の生活をするのでしょうか。物質を中心としたお金でもなく、知識でもなく、権力でもあ りません。ただ愛を中心として生活するのです。愛を根本としてあらゆるものを治める主体が、神様であり、地の真の父母であり、家庭の父母です。

16 神様は、人類の父母でもあるお方であり、人類の王の中の王でもあるお方であり、あらゆるものの中心でもあるお方です。世界的な孝子、世界的な忠臣を従 えるべきお方が神様です。また、世界的に代表される聖人を従えるべきお方が神様です。このようになれば、神様は最高になるのです。それが別々になるのでは なく、そのお一人が父母にもなることができ、国王にもなることができます。すべてを総合した中心存在が神様です。孝の中でも最高の孝であり、忠の中でも最 高の忠であり、聖の中でも最高の聖を代表できる位置を占有した者だけが神様に侍ることができるとすれば、神様は、この三つを一度に成し遂げた人、孝子にも なり、忠臣にもなり、聖人の中の聖人にもなり得る人を願うはずです。

17 宇宙の中心存在であり、創造主であるそのお方は、中心にいながら、保護の責任を感じて保護してくださいます。保護しながら育成してくださいます。正し く育ててくださるのです。それだけではなく、良いことと悪いことのすべてに責任を負います。逃げる道理はありません。ですから、天地の大主宰であられる神 様は、すべてのことに責任を負い、保護、育成なさるのです。その方を中心として、すべての存在が一つになろうとします。

18 神様は、福を無限にもっていらっしゃる、福の中心存在であられます。世の中で何を与えても、買うことのできない福をもたれたお方です。そのお方には、 ないものがありません。皆さんの愛する妻より、もっと貴いものをもっているお方です。皆さんの父より、もっと貴いものをもっています。「私の愛する息子、 娘よ」と言って泣いたりわめいたりしていた、その子女よりも貴いものをもっているお方です。ですから、この地上の人生で最高に勝利したという人、この世の 中のどこから見ても最高に成功したという人は、神様を占有した人です。

19 神様は、天地の大主宰であられます。その方は、最高の理想をもっていらっしゃるので、目的の基準にもなり、動機の基準にもなります。ですから、私たち が存在するようになった動機も神様であり、目的も神様です。それでは、その動機と目的を、どこから探すのでしょうか。その動機は神様のみ旨を中心とした家 庭であり、その家庭をして世界的な目的を達成させるのです。

20 神様は絶対的であり全知全能であられるお方なので、そのお方には限界や有限的なものは存在しません。あらゆるものを超越していらっしゃいます。ですか ら、ある事情の限界圏内に縛られて、それを打開できない立場にいらっしゃるお方ではありません。そのようなお方が今まで求めてこられた願いがあるとすれ ば、その願いは、そのお方自身のための願いではありません。子女である人間を復帰したいという願いをもってこられました。その願いは、神様御自身で決着を つけるものではありません。人間から解決されて神様に戻るようになっています。

21 自分が起源ではありません。自分の生命は、父母や社会や民族、国家を通じて生まれたのではなく、それを超越した一つの起源、すなわち絶対者である神様 から始まったのです。絶対的な立場にあるすべてを、超越した動機と結びつけなければならないのです。時代的な因縁や環境的な因縁、あるいは社会的な与件に 結びつけてはいけません。すべてを超越する原因に結びつけ、すべてを超越する目的に結びつけてこそ、飛躍し、超越して脱出することができます。すべてを超 越する動機に、「私」の命を結びつけなければなりません。私の命は、私から始まったものではないからです。絶対者であられる神様から出発しました。自らを そのような動機に結びつけるようになれば、死んだとしても、すべてを超越する過程で神様のみ旨のために死ぬようになるのです。環境に左右されるみ旨ではあ りません。因縁に基づいた世界のためのみ旨でもありません。すべてを超越する動機と、すべてを超越する関係を通して、すべてを超越する結論に向かって進む 過程にあるのがみ旨です。言い換えれば、すべてを超越する動機は神様であり、すべてを超越する過程はみ旨であり、すべてを超越する目的は世界のために進む のです。

22 神様は縦的な父であり、縦的な主体であり、人間は横的な主体です。縦横が一つになってこそ組織体が完成します。立体的な組織体は、縦横が一つになり、 前後が一つにならなければなりません。縦的なものとは父子の関係です。横的なもの、東西の関係は夫婦の関係であり、前後の関係は兄弟の関係です。このよう に、一つの家庭に、愛の理想を中心とする一つの球形を形成しようとすることが神様の創造理想です。それでは、神様はどこにいらっしゃるのでしょうか。中央 にいらっしゃいます。父の代表として、夫の代表として、母の代表として、妻の代表として、息子、娘の代表として、兄姉の代表として、弟妹の代表として立つ ことができる、中心存在としていらっしゃるためのものが、神様の創造理想です。

23 神様は、公的な目的を中心として忠誠を誓って立ち上がる者たちの前には、いつも主体的な立場で向き合ってくださる主体者です。「私」が涙を流して身も だえすれば、神様もそれ以上に涙を流して身もだえする主体者です。公的な愛の心に燃えていくとき、神様は愛の中心であり主体者なので、愛に刺激された心に いつも相対し、またそこに対する刺激を与えて、その目的を成し遂げる原動力を補給してくれる主体者です。愛を中心としてその目的を成就させるためには、同 労者が必要なのにもかかわらず、世の中にはそのような同労者がいないのですが、神様が同労者になり得るならば、どれほど幸せでしょうか。その神様は、父母 に優り、兄弟に優り、どのような師にも優り、自分を愛するどのような人にも優るというのです。

24 私たちの主体は神様です。ですから、神様と共に喜び、神様と共に歌い、神様と共に踊らなければなりません。そうなれば、どれほどよいでしょうか。です から、私たちの目的も神様です。私たちの人生の道は、何を求めていく道でしょうか。神様を求めていく道です。その神様は、現実的な神様です。

25 神様は個人の主人であり、夫婦の主人であり、家庭の主人であり、国の主人であり、世界の主人であり、天宙の主人です。私たちは、神様の愛をもって、神 様の中心までも占領する主人の役割を果たそうというのです。相対基準を造成し、相対と一体化して平和世界を成し遂げようというのです。キリスト教では、 「創造主は神聖で、人間は卑しい」と言いますが、それはよく知らないので、そのように言うのです。先生が教えるべきことが、これです。神様が創造した第一 の目的は、神様も形状が必要だったということです。

26 神様は最高の公的な主体です。したがって、人間に対する最高の教えは何でしょうか。世界のために公的なことをするよりも、神様のために自分の生命を懸 けて精誠を尽くす人になりなさいということです。そのような人が最高です。ですから、聖書に「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなた の神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである」(マタイ二二・三七)とあるのです。それでは、神様はどのようなお方でしょうか。万宇宙の 主人です。ですから、神様を愛するようになれば、この世界は神様を愛する人のものになるのです。


愛、生命、理想の主体であられる神様

27 神様は生命の主体です。生命が維持される所には、必ずその背後に愛が残っています。皆さんは父母の愛から生まれました。また、その背後には愛と生命と その目的性をもったお方がいます。そのようなお方は、「私」のような主体ではなく、全体の根のような主体です。皆さんが一つの細胞のような相対ならば、そ のお方はこの全体の根のような、宇宙存在の核のような主体です。生命力の全体を代表し得る核であり、愛の力があれば愛で全体を代表する核であり、ある目的 があるとすればその目的の原因的な一つの核になるお方です。

28 太陽が昇ってくれば、すべての木の芽は、太陽に従っていくように作用します。芽が従っていく太陽の光とは何でしょうか。生命の元素です。生命の元素 は、人間にとっては愛です。神様は愛の太陽です。気づいてみれば、神様は愛の太陽なのです。ですから、すべての愛と生命の要素をもって発展し、無限の世界 に同化できる人格を具備するためには、愛の理想に接ぎ木をして和合しなければなりません。そうしなければ、その前に相対圏を得ることはできません。愛の相 対圏を得ることができないというのです。ですから、人間は高貴なのです。神様の愛の相対者として造ったのです。

29 神様は、愛の主体であり、生命の主体であり、理想の主体です。ですから、人間は、愛の対象であり、生命の対象であり、理想の対象だという結論を下すこ とができます。神様が絶対的ならば、自分も絶対的な立場を願わなければなりません。神様が不変ならば、自分も不変でなければなりません。神様が唯一なら ば、自分も唯一でなければなりません。神様が永遠ならば、自分も永遠でなければなりません。このような観点で、人間の永生は不可避であり、それは結果的な 帰一点とならざるを得ません。いくら神様に愛があるとしても、自分に愛がなく、いくら神様に生命があるとしても、自分に生命がなく、いくら神様に理想があ るとしても、自分に理想がなければ、すべてのことがむなしいのです。

30 私たちの生命の主体は神様です。神様は生命の主体であり、愛の主体なので、神様自体に生命力があれば、その生命力も好きになり、愛も好きにならなけれ ばなりません。堕落することによってそのような世界にならなかったので、私たちは再び取り戻していかなければなりません。そのような観点から、私たちが生 きている世の中は、神様が願う世の中ではなく、私たちが願う世の中でもありません。

31 生命をもった存在物は、きょうも動くと同時に、またきょう以降、永遠の未来にも動くのですが、その生命の主体が神様です。また、生命をもったものは、 どのような存在であっても、神様と永遠に一緒にいたいと思い、神様を中心として生活したいと思い、生死までも共にしたいと思う本性をもっています。そのよ うな理念圏内から抜け出そうとしても抜け出すことのできない世界において、主体的な立場にいらっしゃるお方が神様です。さらには、造った万物に対して自分 の情熱をすべて傾けて、愛と情的な関係をもって治めるお方が神様です。

32 私たちは今まで、観念的に神様を呼び求めてきました。宗教的な主体としてのみ神様を呼び求めてきたのです。神様は生命の主体であると同時に生活の主体 であり、生活の主体であると同時に理念の主体です。しかし、いくらその理念の主体が広くて大きいとしても、実質的にそれは生活感情で分析され、体験されな ければなりません。もし生活で体験されるその理念の価値を、存在しているどのようなものとも取り替えることができない、と誇り得る立場に立った人がいると すれば、その人は、神様が探し求めている人に間違いありません。

33 幸福の土台であり、種の中でも生命の種であるお方が神様です。ですから、生命は偉大です。神様は、生命の種であると同時に、身にまとう理想です。神様 の幸福の土台を通して、理想にまで連結させるものは何でしょうか。それが真の愛です。神様は生命の起源であり、愛の起源です。また男性の起源にもなり、女 性の起源にもなります。母の起源にもなり、父の起源にもなります。兄、姉、兄弟たちの起源にもなるのです。

34 神様は、自分の生命の根本を尊重するお方です。み言を尊重するお方です。そして、行動を尊重し、愛を尊重するお方です。神様は、自分の存在の価値を認 め、み言を語ればみ言どおりになり、み言どおりになったものを愛するお方です。語れば行動として結実し、そののちには、それを放っておくのではなく、愛す るのです。ですから、語るのは行動するためのものであり、行動して実体が出てくれば、それは愛で発展させるためのものです。



第1篇 神様 - 第1章 - 第3節 神様のみ言.

第三節 神様のみ言

1 神様のみ言は、盲目的なみ言ではありません。無限に価値のある存在を造るために原理原則を通して語られるみ言が神様のみ言なので、そのみ言には異議があ り得ません。絶対的に一つにならなければなりません。神様も信仰があり、原理原則の内容があり、実体がありました。その実体を通すときに、初めて神様のみ 前に無限の対象の価値をもった子女が登場するので、そこで爆発する愛を通して、人間と神様の関係が結ばれるのです。これは、神様が人間を造るときも、人間 が神様を見つめるときも、同じ立場です。


神様のみ言とは

2 創造の前に、先に神様がいらっしゃいました。神様がいらっしゃってみ言を構想されました。そのみ言とは、実体を造り出せる内容のみ言です。実体を造っ て、ただそのまま神様と関係のないところに置こうとしたのではなく、神様はその実体と永遠に一つになろうとしたのです。分けようとしても分けることのでき ない、神様も分けることができず、人間も分けることのできない不可分の一体理想を成就しようとしたのです。ですから、出発当時から神様と人間が別々に出発 したのではなく、一緒に出発しました。神様がいらっしゃるのと同時に、「私」も出発したというのです。

3 神様は、人間を漠然と造られたのではありません。そこには、「必ずこのようになる」という神様御自身の信念が介在しています。その信念は、具体的な内容 をもっていました。その具体的な内容が原理であり、原理原則です。神様御自身も信じる立場で、原理的な内容を通してその信念と原理が一致し、そこに再び実 体が一致する瞬間が創造の瞬間です。ここで、その信仰とともに、その原理に通じる実体を造るためのものがみ言です。

4 み言とは、神様と人間の間の契約です。「このようにすれば、このようにしてあげる」という契約です。聖書で教えてくれるのは、すべて契約です。「このよ うにすれば、このようにしてあげよう」という契約なのです。天は、契約どおりに履行すれば栄えさせ、契約どおりに履行しなければ滅びるようにするのです。

5 み言は、審判の基準になるのです。法は審判の基準、善悪を区別する判断基準です。ですから、真の真理は善悪の起源を決定でき、その善悪の内容を決定する 一つの基準にならなければなりません。その基準が「統一原理」でなければなりません。皆さんは、これを絶対視できますか。そのみ言に反抗したり、相反した りするときは、そのみ言の制裁を受けます。そのみ言の助けを受けるのが原則であり、み言に歓迎される立場に立ったとき、初めて人格基準に到達できるので す。しかし、それが自分を中心としたものであってはいけません。自らが生活するときに、あらゆることをみ言のとおりにしたといって、その結果が自らに結ば れることを願ってはいけません。それは天に結ばれるようになります。「私」を中心とするものではなく、全体を中心としなければならないというのです。観点 が違っていなければなりません。

6 私たちは神様を真の父と呼ぶことができる存在なので、神様がもっていらっしゃるみ言を私たちも語ろうとしなければなりません。神様のみ言は、そのみ言が 与えられる所では、すべて善の実績を生み、復活の役事、再創造の役事を起こさせます。ですから、私たちは悪を清算し、復活の役事を起こして、再創造の権能 を行使できるみ言をもった人にならなければなりません。このようなみ言をもった人々が集まり、暮らす所が天国です。


心情と愛と天法のみ言

7 人間が生きていく目的は、神様の愛に連結されることです。人間を神様と連結させ得るみ言を宣布する人は地上の人なのですが、その人が伝えるみ言は神様の み言なので、そのみ言によって新しい人が造り出されるのです。ですから、皆さんは、与え合う基盤において完成の基準を備えることができます。原理的見解が そうです。そのみ言に神様が共にいらっしゃることによって相手が復活する立場に立つようになり、そのような相手と「私」が一つになれば、強固な実体を備え るようになり、そのような実体が備えられるに従って、神様の心情を体恤できるようになります。彼が備えた基準の深さと広さが大きくなるに従って、神様の心 情を体恤する比重も大きくなります。み言によって神様の心情が躍動します。ですから、いくら堕落した人でも、そのみ言を聞き、み言に接するようになれば、 我知らず神様の心情が芽生えて高まるのです。神様の心情が芽生えて高まることで、怨讐を愛することができる力が生じ、サタン世界を主管できる基礎的な力が 発動します。このみ言は、私一人が知っているだけでは絶対にいけません。皆さん自ら、神様の心情を誘発させなければならないのです。

8 真理とは、世俗的な真理ではなく、神様の愛のみ言を言います。神様の真理は、ある特定の摂理的な人物を通して啓示として地上に伝えられます。神様の真理 は、絶対真理です。絶対真理は万能キーのようなもので、この真理を適用すれば、どのような難問題も解けるようになります。

9 皆さんは、神様が皆さんに伝えるみ言に対して「永遠の法度のみ言として下さったみ言」と認識して、「これは私の生命のみ言です」と言いながらそのみ言を 受け入れるだけでなく、創造の当時に人間を創造していたみ言だと、感じられる一時をもたなければなりません。もし皆さんがそのようなみ言をもつことができ ず、神様のそのみ言を皮膚で実感できる体験の一時をもつことができないとすれば、神様の息子、娘になることはできません。

10 皆さんが真理を見つけ出そうとするなら、他のどんな話も聞いてはいけません。ただ真の真理のみ言だけを聞かなければなりません。それでは、どのような み言が真の真理のみ言でしょうか。どこの誰が聞いても、我知らず悔い改めの心が起き、我知らずそのみ言に心が惹きつけられ、そのみ言を消そうとしても消え ない、そのようなみ言があるとすれば、そのみ言が正に真理のみ言です。それが天倫の道理に通じた真理のみ言です。

11 神様が原理的に再創造をしなければなりません。無原理圏の土の塊のような人間を、どうしなければならないのでしょうか。神様が土の塊でアダムとエバを 創造されたのと同じ立場で、神様のみ言と一つになるようにしなければなりません。み言は漠然としたものではありません。原理による原則を通じたものです。 人の目はこのようになり、鼻はこのようになるという原理原則、設計図がみ言です。その設計図に一致する人にならなければなりません。

12 神様のみ言は、すべての真理の根本であり、したがって絶対真理です。また、統一された真理です。人間の堕落によって神様を失ってしまうことによって、 絶対価値と絶対真理を喪失したのであり、統一された価値と統一された真理を失ってしまいました。絶対価値と絶対真理から絶対価値観が立てられます。「観」 とは、観点であり、見解であり、理論です。したがって、今日の世界的混乱を収拾する方案は、絶対的価値観を確立することなのです。

13 なぜ神様を必要とするのでしょうか。それは、神様がもつ真理が不変だからです。神様のみ言は変わることがありません。千年前に話したことは、何億万年 後でも、そのみ言どおりに守られなければなりません。人間がしたことは、いくら才能を発揮して付け加えても、時代が過ぎればすべて風化作用によってなくな りますが、神様のみ言は、風化作用を超越するのです。


創造と成長と完成の真理のみ言

14 神様は、み言ですべてのものを創造されました。み言、すなわち真理が完全でなければ、その実体も完全にはなれません。真理が不完全であれば、実体も不 完全とならざるを得ません。信仰生活も、完全な位置に立脚しなければ、完全な信仰生活をすることはできないのです。ですから、神様と天地が願う完全な真理 が出てこなければなりません。

15 神様は、永遠で唯一のみ言を通して被造万物を造り始めました。そうして神様は、アダムとエバがそのみ言の目的を完成して、神様が実体的に、永遠に臨在 できる体となることを願われました。これがアダムとエバを創造された目的でした。さらに神様は、アダムとエバに命の息を吹き入れ、彼らの心の中に永遠の生 命の主体として臨在され、安息の住みかを造ろうとされたのです。正に、このような天倫の大いなる目的を立てて、アダムとエバを創造されたのです。

16 神様が原理を通して語られるとき、自分勝手にするのではありません。原理を中心として完全に一体となった中でお話をされるのです。そこから対象と一体 となる観点が生じます。ですから、皆さんにも信仰観が必要です。神様が私たちを信じたのと同様に、信じなければなりません。漠然としていてはいけません。 原理を中心として、原理と一つにならなければならないのです。その次には、原理を原理のままで置くのではなく、原理と一つになる信仰をもって、その原理の 実体にならなければなりません。それだけでなく、実体を完成するのと同時に、神様の愛を受けられる息子、娘にならなければなりません。

17 イエス・キリストがこの地に来られ、三十年余りの生涯で涙を流され、悲しい苦難の道を歩まれながらみ言を宣布された目的とは、何だったのでしょうか。 それは第一に、人間をして神様との関係を回復させるためだったのであり、その次には、人間に天国を紹介するためでした。このようにイエス様は、天国を紹介 されるとき、み言で紹介されました。すなわち、真理で天国を紹介しようとされました。神様は、そのように人間と永遠不変の関係を結ぶためのみ言、この地に 天国理念を実現するためのみ言を、イエス・キリストを通して人間たちに与えてくださいました。真の真理を、イエス様を通して示そうとされたのです。ですか ら、神様と人間の関係を結ぶために来られ、真の真理を人間たちに証するために真理をもってこられたイエス様は、神様と人間と全被造万物が希望する天国を建 設するために、真理のみ言を宣布し始められたのです。イエス様は、このように神様と人間の関係を回復するために真理を宣布してくださいましたが、その真理 と関係を結ばなければならないイスラエル民族がイエス様を不信することによって、イエス様のみ言宣布の目的は成し遂げられなくなったのです。



第1篇 神様 - 第1章 - 第4節 神の属性.

第四節 神の属性

1 神様の属性は、絶対、唯一、不変、永遠です。これが神様の四大属性です。すべての創造は、絶対的であり唯一なものです。すべてのものが絶対的な立場にあ るので、絶対的に自分自身をその位置に立てるのです。ですから、すべてのものが唯一です。どこにおいても勝手に混ざったりしません。愛の道というものは唯 一です。その次には、不変であり、永遠です。


神様の主流属性

2 神様の属性は、絶対、唯一、不変、永遠なので、私たちはそのような内容を中心として絶対的な愛の主体にならなければならず、唯一の愛の主体にならなけれ ばならず、不変の愛と永遠の愛の主体にならなければなりません。そのような人が神様の代身者です。神様の属性に一致できる存在は、神様の代身者になること ができます。神様が相対を創造するとき、何を加えたのでしょうか。創造性です。絶対創造性、唯一創造性、不変創造性、永遠創造性です。愛を中心とした絶対 的な創造性を投入したというのです。神様の愛が絶対、唯一、不変、永遠のものなので、その愛に通じれば、神様と永遠に苦楽を共にすることができ、神様のす べてのものを相続することができます。絶対的な神様の愛が「私」の愛であるならば、絶対的な神様の対象になることができるのです。

3 神様の属性が絶対、唯一、不変、永遠なのと同様に、私たちも絶対的に一つにならなければならず、天下に唯一的なもの、永遠なもの、不変なものとして一つ にならなければなりません。そうしてこそ、永遠の愛がそこから始まります。永遠の生命の縁をもって、永遠の真の男性と永遠の真の女性がその過程で絶対、唯 一、不変、永遠であり、定着した不動の愛の主人になってこそ、男性として完成し、女性として完成するのです。その場は、愛の完成の場であると同時に、男性 と女性の生命が一つになる場であり、男性と女性の生命が一つになると同時に、新しい生命を創造する血統的関係が連結されるのです。

4 神様は、愛を中心として存在します。ですから、神様には愛を中心とする絶対性、愛を中心とする唯一性、愛を中心とする不変性があります。すべてが愛を中 心にしています。愛の属性も絶対であり、不変であり、唯一なのです。そのような愛を人間も望みます。絶対的な愛を好むというのです。絶対に一つしかないと いうものが絶対性です。ですから、神様の属性は絶対であり、唯一であり、永遠、不変です。

5 愛は相対的関係から生じます。ですから、絶対的な神様であっても、愛の前には絶対服従しなければなりません。そうでなければ、人間の道理についての教育 ができません。神様は、アダムとエバに対して、「お前たち夫婦の愛は絶対的である。永遠に変わらない」とおっしゃるのです。なぜ絶対的かといえば、アダム とエバは神様の属性が顕現した実体だからです。神様は唯一、絶対、無二のお方です。ですから、アダムも、その属性が顕現したがゆえに絶対的な存在です。ア ダムは神様の男性的な属性が顕現した存在であり、エバは神様の女性的な属性が顕現した存在なのですが、その属性自体が絶対的です。その内的な属性と外的な 属性を備えたものを一つに束ねるものが愛です。その愛は、神様までも絶対服従する絶対的な愛です。ですから、その絶対的な愛を中心とする夫婦は、唯一無二 なのです。絶対的であると同時に永遠不変です。

6 創造主である神様が立てた目標は、変わりません。いくら時代が変わり、歴史が紆余曲折の過程を経ていくとしても、すべての人の良心の中心となり、すべて の人の希望の目標となる神様は、決して変わりません。永遠の前から永遠ののちまで変わりません。ですから、「わたしはアルパであり、オメガである。最初の 者であり、最後の者である。初めであり、終りである」(黙示録二二・一三)とあるのです。


真の愛の根源であられる神様

7 神様は愛の根であり根源です。また神様は生命の根です。そして、神様は血統の根であり、良心の根です。私たちは、愛や生命、血統、良心を見ることもでき ず、触ることもできませんが、存在することを知っているのと同様に、神様を見ることもできず、触ることもできませんが、存在することが分かります。それで は、生命の根となり愛の根となる神様は、どこにいるのでしょうか。空中にいるのではありません。私たちの生命と愛の根の中に神様がいらっしゃるのです。で すから、感じることができないのです。

8 神様は真の愛の根です。根は、幹を通して芽と通じます。そして、枝は東西南北に伸びます。東西南北に伸びれば伸びるほど、芽も育ち、幹も育ち、根も育つ のです。ですから、神様は、人間世界において、真の愛を中心とした縦的な父だということを発見できます。真の愛を中心とした縦的な父が創造主であられま す。

9 愛の根が神様です。神様は根の中の根です。その愛の根に接ぎ木しなければなりません。そこに一つになれば、その愛の根に連結され、そこから芽が出て多く の枝が伸びれば、花が咲き、実を結びます。そこにおいて、主人の希望が花開くのです。芽が出て枝が伸びなければなりません。芽が出ただけでは滅びます。芽 が出れば、枝を伸ばさなければなりません。中心となる枝をはじめとして、数多くの枝が出てこなければなりません。数多くの葉が生い茂ってこそ、そこに花が 咲きます。それが育つ順序です。そのようにして、本来の完成段階を経ていくのです。

10 愛の主人は神様です。神様が愛の根です。根の中で中心の根は一つです。中心の根に通じる愛はどこにあるのか探さなければなりません。ですから、完全に 神様のようにならなければなりません。神様の心と体が絶対的に一つになっているのと同様に、私たちも心と体が絶対的に一つになる息子、娘にならなければな りません。

11 善の神様は、犠牲と愛の神様です。愛は、犠牲の本質を離れてはあり得ません。愛する人のために犠牲になったとしても、その犠牲を犠姓とは考えません。 犠牲になれば犠牲になるほど恵みを感じるのです。愛とは、そのような異なる性質をもっています。愛がどれほど大きいかを考えるとき、それを表すのは、必ず 犠牲になるその量がどれほど大きいかによって、愛の大小、高低が決定されます。犠牲が大きければ大きいほど、大きな愛を表すのであり、犠牲が小さければ小 さいほど、そこでは小さな愛を表すのです。

12 神様は絶対的な愛の存在です。神様は愛の対象である人間を創造し、御自身の愛をその上に注ぐことができるように願いました。そのようにすることによっ て、神様は自然に、男性と女性からその愛が返ることを期待しました。そうなれば、神様は無限の喜びを感じたはずです。アダムとエバは、まず自分たち同士が 愛の中で一つとなってこそ、神様の愛の完全な対象となることができます。したがって、アダムとエバが一組の成熟した人間となって神様に似るようになり、神 様の愛を受けてその愛を神様にお返しするためには、成長と成熟の期間が必要でした。

13 神様は、愛のために天地を創造されました。その愛の対象とは誰でしょうか。人間です。これが人間の価値です。神様は愛の王であられるので、父母の愛 も、夫婦の愛も、兄弟の愛ももっています。東西南北、前後左右に、その本性をもって真の愛を備えることを願う相対が現れるときは、いつでも向き合える主体 なので、神様は愛の大王であられるのです。


情、知、意の人格的な神様

14 神様は、人間とどのような関係にあるのでしょうか。神様が人間と関係を結ぶためには、人格的な神様でなければなりません。人格的な神様であるならば、 人間と同じでなければなりません。人間に心があり、体があるのと同様に、人間を造られた神様も、人間と共に共同の目的をもつことができるその本体であるな らば、人間に似ていなければなりません。二性性相という概念は、そこから出てくるのです。

15 創造主であられる神様が創造するとき、無目的な創造物を造ることはできないというのです。人間が情、知、意をもっている以上、このような人間を造られ た神様も、やはり情、知、意の本体であることは間違いありません。

16 神様は、人格的な神様です。人格的な神様なので、情、知、意を備えなければなりません。そうであってこそ私たちと通じることができます。「私」が笑え ぱ神様も笑わなければなりません。それでは、思いのままにできる絶対的な神様が涙を流すのでしょうか。神様も涙を流すというのです。

17 キリスト教では、神様は唯一無二のお方であり、絶対的なお方であり、創造主であり、神聖な存在として至高な立場にいらっしゃるので、人間、すなわち被 造物と関係をもつことができないと考えています。被造物は卑しいものであり、創造主は絶対的で神聖な方であるとみなしていますが、愛の概念を中心として考 えてみるとき、神様と被造物が愛の関係を結ぶためには人格的な内容が同じでなければならず、心情的内容が同じでなければなりません。すなわち、人格を備え た人と性稟が同じでなければならないというのです。ですから、人間は神様に似ているのです。それで、私たちは、「神様は私たちの父であられる。私たちは神 様の子女だ」と言うのです。これは人間が神様に似ているということです。何を通して似たのでしょうか。血統を通して似たのです。血統を通して関係が結ばれ たというのは、愛によって関係が結ばれたという意味です。

18 神様は、情、知、意を合わせた内容を備えた人格的な神様です。そのような人格的な神様が最高に願うものが愛なので、その愛の対象のために人間始祖を造 りました。キリスト教の神学は、創造主と被造物について、創造主は神聖な方であり、被造物は卑しいものだとしています。神様が理想的な愛の相対者を求めよ うとする相対理想が絶対に必要だと考えるとき、それはあり得ないというのです。神様が神聖であられるからには、その神聖な方が相対理想を通して求めようと する愛の対象者も神聖だというのです。人間の特権的権威は、ここから成立します。

19 哲学の最後の終着点は神様を発見することです。その神様は、どのような神様でしょうか。絶対的な神様、不変の神様、唯一の神様です。神様を発見すると き、その神様は人間に必要な人格的な神様でなければなりません。人間と関係を結ぶためには、人間が考える内外のすべてを備え、意志を備え、理想を備えた人 格的な神様でなければならないのです。情緒的な領域や、意的な領域や、知識的な領域や、あらゆる領域で、人間と通じることができ、完全に関係を結ぶことが できる神様でなければ、いくら神様がいるとしても、人間とは完全な関係をつくることができません。このように考えるとき、哲学は、人格的な神様でなければ ならないという表題に基づいては、神様をあがめ、尊んでこなかったのです。

20 神様が必要とするものが愛ならば、神様は神様に似たものを愛されます。ですから、神様が好み、愛を分かち合える、相対的なものを必要とするのです。人 間がそのような相対ならば、人間を中心として見るとき、神様は人格的な神様でなければなりません。それとともに、そのあらゆる要素が100パーセント和合 しなければなりません。心と体のすべてが和合する神様でなければなりません。ですから、情、知、意をもった神様でなければならないのです。

21 神様を中心として見てみると、神様は人格をもった神様です。神様は人間の主体なので、人間と完全に通じる人格者です。そのようなお方ならば、その方が 考える人倫道徳があるはずです。人間はこれこれこのように生きなければならない、という法則があるはずです。人間に人倫があり、人情があるのと同様に、神 様においても天倫があり、天情がなければなりません。神様は主体者としての愛をもたなければならず、そのような法度をもたなければなりません。また人間 は、対象者として愛をもたなければならず、その法度をもたなければなりません。人倫と人情があるのに、天倫と天情はないというならば、これは論理に合いま せん。

22「元亨利貞(ゲンコウリテイ)は天道之常であり、仁義礼智は人性之綱である」という言葉があります。「仁義礼智」を重要視したのです。「元亨利貞」 は、自然の変わりなく循環する春夏秋冬の宇宙軌道についての説明です。しかし、人格的な神様が分かりませんでした。自然世界の陰陽の道理は解きましたが、 愛や血統や完成ということが分かりませんでした。神様は東西南北の均衡をとった主体と対象、性相と形状の中和的存在だということが分からなかったというの です。

23 この天地を運行する神様は、人格的な神様です。人格的な神様は、人間を中心とする理想的家庭を中心として父母にならなければならず、夫婦にならなけれ ばならず、子女を率いて一族を編成し、一族を中心として一国を編成して世界の統一、天の大家族国家を形成しようとするのです。そのようになれば単一民族に なります。イエス様が「神のひとり子」と言ったことは驚くべき宣言です。その次には、「新郎新婦」を語りました。男性として達成すべき最高の基準を教えた のです。ヨハネによる福音書第十四章を見ると、骨子をすべで語っています。ですから、のちに新郎新婦を訪ねてきて、家庭編成、氏族編成、国家編成、世界統 一天下のために再臨するというのです。

24 愛を論じようとすれば、人格的な神様でなくてはなりません。人格的に人と同じ素性と情緒をもった神様でなければならないのですが、そのような神様を揚 示した宗教は、キリスト教しかありません。キリスト教では神様を「父、ヤハウェの神」といいました。「ヤハウェの神」を父と呼んだというのです。神様を 「父」と言ったという事実は、偉大な発見です。


原理と法度の神様

25 神様は、原理の神様であられます。反対にサタンは、非原理的な立場に立った存在です。ですから、非原理的であるときはサタンが主管し、原理的であると きは神様が主管するのです。神様が天地を創造されたところを見てみると、神様がいて、その次にアダムとエバがいて、その次に天使長がいる、このようになっ ています。これが原理的です。

26 宗教生活とは何でしょうか。本性の生活です。本性は原理の中心です。神様は原理の主人です。ですから、神様は原理を管理することができます。本性の位 置だけを中心として、神様が管理することができるのです。本性の位置は絶対的な神様と一つになっているので、本性も絶対的な位置に立とうとします。心が体 に対していつも命令できるのは、絶対的だからです。また、原理的だからです。原理は、あらゆる事物の中心を決めます。原理原則であるほど、それは中心の近 くの位置に行くのです。

27 善良な人、良い人は、全体の代表者です。ですから、善を中心として見てみるとき、原則的な原理の位置に近い人が、より善良な人です。その原理の中心が 神様なので、原理に従う本心は、自動的に神様と一つになろうと作用します。その自動的に一つになろうとする作用が良心作用です。本来、良心は人間が堕落し なければ、体までも一つにすることができる主人でした。それが原理でしたが、堕落したので非原理的な基盤になりました。それで原理は、闘争しながらでも、 非原理に対して常に作用せざるを得ません。これが良心作用です。

28 真は、必ず神様が中心にならなければなりません。ですから、人間を全体的に収拾し、主管できる決定的な基盤をもつようになるとき、真が成立するので す。その基盤をもつことができなければ、真という言葉は成立しないのです。真の起源は、神様であられます。神様がいらっしゃることによって、真が成立しま す。ですから、神様が離れるようになるとき、真も離れるようになります。そこには真ではない、悪の起源が生まれるのです。真があってこそ真の結果をもたら すことができます。言い換えれば、神様がいらっしゃることによって神様の願いが成就するというのです。ですから、真や善という言葉は、人間を主として立て られたものではなく、神様を主として立てられたという事実を知らなければなりません。

29 真とは何でしょうか。男性にとって、最も真理であり真なるものは女性であり、女性にとって、最も真理であり真なるものは男性です。また、神様にとって 真は人であり、人にとって真は神様です。真理がほかの所にあるのではありません。神様が真であり、神様が真理なので、そこから始まったすべてのものは真で あり、真理とならざるを得ません。そのような真のものがどのようにして完成するのでしょうか。男性と女性が一つになり、その一つになった男性と女性と神様 が一つになるとき、真の愛を中心として完成するのです。真の愛でなければ完成はあり得ません。このように考えるとき、男性と言えば、その男性は真理の完成 を代表した存在であり、女牲もやはり真理の完成を代表した存在です。男性と女性が一つになるのは、神様の完成とともに宇宙の完成のためなのです。

30 神様は、真理の主体であり、真理の本体であられるので、あらゆることが可能だといいます。神様が真理ならば、この原則は同じです。神様は、主体的存在 であると同時に、主体としてあらゆることに責任をもたれるのです。自分に関係することでも、相対的なことでも、あらゆることの責任は自分が負うという立場 にいます。ですから、神様は今まで歴史の中心になってきたのであり、また永遠に中心存在として残るでしよう。

31 神様が、法で天地万物を造っておいて、その法を無視すれば、その神様は、法を主管できる神様になれません。法を立てたのなら、法を守ることによって、 法を主管できる神様になります。法を自分のものにすることができる神様になるというのです。法に反対すれば、その法を自分のものにすることはできません。 法を守ってこそ、その法が神様めものになります。自分がその法と一つになったがゆえに、その法を中心として判断することができ、法に背いたと制裁すること ができ、命令することができます。そうでなければ、法をもって判決することもできず、宣告もできません。

32 キリスト教で「父なる神、全知全能の父」と言いますが、全知全能の神様も原則の基盤の上においての全知全能であって、無原則の基盤の上での全知全能で はありません。自分勝手にする神様ではありません。神様御自身が法を立てたならば、永遠のお方が制定した法は永遠です。自分が立てたものだといって、自分 勝手にはできません。

33 キリスト教の牧師たちは、「全知全能で創造の能力をもった神様は、今からでも思いどおりにできる」と言うかもしれませんが、とんでもないことです。天 地のあらゆる存在物は、法則、大原則に基づいて作用します。いくら神様でも、この法則を破壊して行動することはできません。この国の大統領でも、憲法を中 心として制定されたすべての法、立法機関を通して制定された法を重要視しなければなりません。神様は絶対者であり、永遠、不変、唯一の存在なので、その方 が定めた法も、絶対、唯一、不変だというのです。そして、この法に一致する相対者が必要です。相対者がいなければなりません。個人を解放できるその法に一 致できる、世界を代表できる相対者が必要だというのです。


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